記事タイトルをもっと長くしたかった。
「わたしも生きてていいんだ、ならできるだけ幸せに生きよう」そんな気持ちを底上げしてくれる本。よしもとばなな「さきちゃんたちの夜」って。
でもいくらなんでも長すぎですよね。
この中の一編祖父母秘伝の豆スープを配る咲の話「癒しの豆スープ」が今は印象に残っています。
あらすじを簡単に説明するのである程度のネタバレしますよ。
咲は複雑な家庭環境に育った女性。銀座のイタリアンレストランのシェフで水商売の華やかさが、一見「売り」の父親と母親は咲が15歳の時に離婚。それから咲は父方の祖父母の一軒家でなんと母親とともに暮らす。
そのプライバシーという概念の薄い昭和的間取り(続きの間でがっつりした個室がない、たぶん襖仕切)の自宅で、祖父母は朝のウォーキングをする人々に無料で豆スープを振る舞っていた。
ひっそりと祖父母が亡くなった後、咲と両親は豆スープの復活とバラバラになった家族が個々として生きていく復活を試みる、という話。
もう、ごめんなさい。
あらすじがよくわかりませんがこれは私の説明の下手さだけでなく、ばなな小説のわけわかんなさ(そこが良い)のせいでもある!
感想
咲は複雑な家庭環境で…って自分で書いててなんですが、複雑じゃない家庭環境の人なんかいるのかね?とわたしは思っています。だって家族ってなんだか基本ヘビーじゃないですか。そして咲もそれを感じていて、傷を負って(それも誰もが背負うことだ)、それは第二の家族である祖父母の家で癒されてゆくのですが、この祖父母宅が小津安二郎の「東京物語」を思わせる淡々さ。穏やかさ。まずここでやられました。そこで心を込めて無料のスープを提供しちゃうんですから、無敵です。無敵の善意の祖父母とその設定。
しかしそこでも咲はまた人々のずるさやいやらしさを目撃してどんよりとしたものを抱えたりもするのですが、ふとした無垢なやさしさに触れたりしてまた思い直す。ぐるぐるです。人生はぐるぐる。一回クリアしたと思ったらまた元通りになったりして。で、なんなんだ自分、ぜんぜんバージョンアップしてないじゃん!とか思った矢先に恋人との電話で急にすがすがしい気分になって景色が違って見えたりして。
でも、そのぐるぐるがいいんだよなあ…と中年になったわたしは思いました。
誰もが意識高く、上へ上へと目指さなきゃいけないように思ったり、もっと自分を見て欲しい(いくらがんばっても誰もわたしなんか見ててくれない)、と思ったり。
そんな風に生きているとなんだか心がキューっとなって、第一楽しくない。そしてそんな人といたいと思う人もなかなか珍しいだろう。
ぐるぐるこそが人生であり、それを楽しもう!上へ上へ行けなくたっていいじゃないか!この祖父母のように淡々と、穏やかに日々を送ってたまには「癒しの豆スープ」のようなものを人に渡すことができたらそれ以上のことをなにを望むことがあろうか!
そういう小説だと思い最後の方まで読んでいました。
しかし、同じくこの家で傷を癒されたはずの咲の母がラスト近くになって言うのです。
「なんか善人大行進って感じで。ついていけない。つかれちゃう」と。そして「これも洗脳だよねえ、善人洗脳にやられたよ。あーあ、早く若い彼氏でも作ってくだらないこと言い合って、エロい温泉旅行でも行こうっと。」と。
おばあちゃんのことをほんとうに好きだった、と涙ぐみながらこれを言う。
笑いました。爆笑でした。
いくら清冽な良心や静けさに癒されても、人はそれだけじゃない。エロいことも考えるしずるさも持っているし、第一みんな自己中心的で適当だ。複雑という一言で収まりきらないこの多様性。
そこがまたおもしろいんだよなあ…とこれまた中年になったわたしは思いました。
だからもう、いいんですよ。
意識高くなくっても。グダグダでも。コントロールできないブログのPVを気にするなんて愚かだと自分に突っ込みつつ気にしちゃったりすることも!
人間はぐるぐるだから、多面体だから大丈夫!
良い母親じゃなくて、家事も手抜きで、若くも無けりゃ美人でもなくて、仕事に対して大きな夢があるわけでもない、そんなわたしも余裕で生きてていいんだ。ならできるだけ幸せに生きよう。
そんなことを感じさせてくれた本でした。
以上でした。